「永遠で勝負しよう」

〜死の床で聞いた福音〜 伊藤 正雄

 私が初めてキリスト教に接したのは小学校の四年生のときでした。当時、私は今の広島市西区の高須に住んでいましたが、近所に新しく教会ができ、友達に誘われるままに兄弟で日曜学校に通いはじめました。暗唱聖句を覚えるたびにもらう豆カードや、学校の学芸会では「その他大勢」の役で一言か二言しかセリフが無かったのに、教会のクリスマス会では二役も、三人役もさせてもらうのが楽しくて、兄弟で良く通いました。
 しかし、いつとはなしに足が遠のき6年生の頃にはほとんど行かなくなりました。そんな時、母が「正雄はどうしてこの頃は教会へ行かんのん」と尋ねました。私は「ほんとかどうか解らんけえいかん」と答えたと、後に母が教えてくれました。
 県立高校に通っていたある日、急に胸を締め付けられる様な痛みが襲い、原爆病院へかつぎ込まれました。普通、肺結核の初期には痛みは伴わないのに、過労からきた痛みにより胸がやられていることが解り、即刻、元宇品のサナトリウム送りとなりました。サナトリウムには色々な方がおられ、重症の方は喀血し亡くなられる方、肺切除で片方の胸がペチャンコの方などと一緒の入院生活をしていると、私もあのようになるのではと言った不安に追いやられる日々でした。学校時代の友達は皆青春を謳歌しているのに、どうして僕は学校にも行けず、病にも犯されと苦悩の日々に追いやられて行きました。檀家である本山の永平寺へ言って修行したら楽になれるのかな、それともお大師さんの高野山さんがいいかな。また修行は苦しいのではと悶々としました。サナトリウムには、また色々な宗教家と称される方の訪問があり、また集会もありましたが患者さんの中には「宗教と言うものは人の弱みにつけ込んで入会を勧める詐欺師みたいな者じゃ。」と言う人もおり、私もそのように思ったこともありました。また、RCCのラジオ放送で「新生タイム」と言う福音放送を耳にし慰められたのも事実です。
 幸いなことに私の病は発見が早かったことと、新薬のおかげで、一年後に退院しました。終戦後の苦しい生活の中で、両親や兄弟たちが、「正雄には無理がさせられんけえ学校へ行けえ」と言ってくれ、落ち着いて勉強ができるようにと「親戚」に預けられることになりました。その親戚の家の近くに教会があったのです。

 夏の夕刻、まだ日のあるうちでした。大きな太鼓を叩いて賛美歌を歌っている集団に捕まりチラシを受け取りました。学校に復学しても「人生とは?」と言う問題がなかなか解決できず、倉田百三の「出家とその弟子」とか「愛と認識との出発」と
かヘーゲルの「弁証法」とかを読んでいたときなので賛美歌を聴いたとき、小学生のころ行っていた日曜学校が思い出され、入院中に耳にした「新生タイム」により慰められた思い出から、誘われるままに夜の集会に行く気になりました。
建物は決して「教会」と言えるような代物ではありませんでしたが、語られるお話は力強く、心に迫りました。
 「あなたの罪のために、イエス・キリストは十字架にかかり、あなたの身代わりとして死んで下さった。」また、「あなたの身代わりとなって死んで下さったイエス様は死なれただけではなく、三日目にはよみがえり、今日も生きておられる。」「あなたもイエス様を信じれば永遠の命をいただけるのだから、目先のことに目を奪われることなく、永遠で勝負をしよう。」と語りかけられました。
 「私が求めていたのはこれだ。」と確信し、その日のうちにイエス・キリストを信じる決心をしました。「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられました。」という聖書の言葉は、今でも忘れられません。
 世の不条理に悩み続けていた私は、海綿が水を吸い取るがごとく聖書を読み漁りました。もちろん解らないところや、理解に苦しむことも多くありましたが、「私が道です、真理です。」と言われたイエスにすべてを委ねようと決心し、三ヶ月後には、太田川の岸辺で洗礼を受けました。
 あれから四十年。その後のクリスチャンとしての人生は、「神様に感謝」をしたことより、「神様に愚痴」をこぼしたり、「多くの人を傷つけた」ことばかりでした。まわりの人からも、「よくもまあそれでもクリスチャン?」とか、「何のために毎週、毎週教会に行きよるん?」と言われてきました。しかし、何かにつけ「三日坊主」で長続きのしないこの私を、よく辛抱して今日まで守り続けて下さった神様に、心から感謝する今日この頃です。