「だれのせい」

〜こんな私でも愛されている〜 松尾 宏子

二〇〇二年四月一五日、二一世紀初めてのイースター(復活祭)に私は洗礼を受けました。「あなたはイエス・キリストを救い主として受け入れますか。」
私は「アーメン(はい)」と答えました。 イエス様を信じるまでの私は、ただなんとなく生きているだけでした。毎日、会社に行き、毎月お給料をいただき、バブルの頃は年に一度の海外旅行。それが「あたりまえ」。なのにいつも心の中には会社への不満があり、自分の人生には漠然とした不安を抱えていました。特に「こんな歳(当時三七歳頃)になっても独身なんて、ひどすぎる!何にも悪いことしてないし、こんなに真面目に生きているのに!どうして!」と嘆き、お見合いしてもうまくいかないと「もしかして私は人を愛することができないのかしら?」とまで思いつめていました。
 そんな時、偶然(もちろん偶然ではなく神様のご計画だったのですが)、クリスチャンの友人と出会いました。不思議なことに「聖書をきちんと読みたい」という気持ちが私の心にわいてきたのです。わが家は、熱心な日蓮宗ですが、なぜか家の中には聖書が四、五冊ありました。読んだことはあるけど何のことやら、さっぱり解らず。クリスチャンの人に説明してもらおう、と考えたのです。それが私とイエス様との出会いでした。不思議なことに、自分にはない「愛」が「聖書」にはあるような気がしていました。
 そうして一年ほど二人で聖書を読み続けるうちに、私は「イエス様には愛がある」と信じるようになりました。また、私は自分の容姿と性格に強いコンプレックスを持っており、自分の存在を無意識のうちに否定していました。「生きていてもしょうがない、死んでも誰も悲しまない」とさえ思っていました。ところが、そんな私に神様は目をとめ、愛しておられると知ったのです。その時は私は今信じるしかないと感じました。今ここで神様から離れるわけにはいかない!「今、私はイエス様をを受け入れないと、本当に愛の無い人間になってしまう!」と思ったのです。
 そんな私が、イエス様を受入れ、洗礼を受け徐々に変えられていきました。毎日が神様に感謝する日々です。もちろん日常のすべてがバラ色という意味ではありませんよ。私は相変らず泣いたり、怒ったり、考え込んだりすることがあります。けれどもそのことを、もう、誰かの、あるいは何かのせいにもすることはなくなりました。以前の私は、会社で認めてもらえないと「会社の組織が悪い」、結婚していないのは「自分の性格が悪い」、寂しくなると「どうせ私なんて誰も気にかけてくれない」、器量が悪いのは「親のせい」、将来が不安なのは「世の中が悪い」となにかにつけ、理由を見つけ出し、そこにこだわっていました。
 でも今は「すべて神様の許しがなければ、どんな状況でも起こることは無い」と確信し、「神様は私に何を示されているのだろう?どうぞ教えてください。」と祈るようになりました。そうすると、自然と心が平安になり、誰かを責めることが少なくなりました。なぜなら、すべては愛の神様が私のために用意してくださったことなのですから。そして、自分のことも受け入れられるようになってきました。「神様がお作りになられた自分だもの」と思うと、しょぼい自分もいいものだと感じます。罪深い私ですら神様は許してくださったのです。私には劇的な悩みや苦労も、劇的な変化もないけれど、劇的に以前とちがうのは「そこに神様」がおられ、それを信じている自分がいる日常・毎日があるということです。それは絶対に真実で変わることがない、愛であり恵みです(世の中や人の心はどんどん変わるけれど)。こんな喜びがあるでしょうか!すべては神様のご計画のうちなのです。私はイエス様を受けいれてから始めて、自分を含めたすべてのことを受け入れられるようになってきました。人として当たり前のことが、やっとできるようになったのです。 歩き始めたばかりです。
 そしてそんな私に神様は「教会」と「聖書」も与えてくださいました。教会には同じ信仰を持った「家族」がおり心が躍る賛美があるのです、聖書には神様からの時には力強い励ましや、私たちへの愛が語られています。 「地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕。わたしはあなたの選び、決して見捨てない。」イザヤ書二・九 「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする」イザヤ書四三・四。
神様はわたしを愛しておられる。その真実があれば、悲しいと思うことがあっても、何で!と思うことがあっても、前を向いて生きていける。それが「今」の私です。


写真素材:ぶどうの木