「わたしが道である」

〜最後に見つけた真理〜 台田 好則(会社員)

 私がイエス・キリストを信じ、救われた体験をお話しします。
イエス・キリストを信じる前の私は、将来アフリカに猛獣狩りに行こうと思い、暇さえあれば
3艇の銃を油で手入れしておりました。1963年、結婚間もない姉が交通事故で死んだショックと、当時勤務していた会社で労組役員をしていた私は人間関係で悩み、早朝5時から座禅を組みにお寺に通いました。毎朝1時間座禅を組み、そして出勤しましたが、人間関係は好転せず、また悟りも開けません。4〜5箇所のお寺に足を運びましたが解決は与えられず、空しさが心のうちで大きくなってきました。
 そのとき行っていた理髪店の壁にかけてあった「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」という聖書のことばが目に留まりました。また、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」と書いてありました。
 そこで導かれた場所が、お風呂屋さんの前の小さな教会でした。聖書の「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを開いて、わたしを遣わした方を信じるものは、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」をひらいてくださり、堀川満也牧師は「キリストのことばを聞いて、キリストを私たちのところに送ってくださった神を信じる者は、永遠のいのちを与えられ、さぱかれず、死からいのちに今移っているのです。」と説明してくださいました。さらに「聖書が書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなた方が信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためです。」と力強く話されました。
 このキリストというお方は、私のすべてを知っておられ、また人生の解答を与えてくださる方だと思い、イエス・キリストを受け入れ、自分を明け渡して従う決心をしました。
 キリストを受け入れてから、私の心の中には口や言葉では説明できない、こみ上げてくる喜びが与えられました。命よりも大切と思っていた銃を手放し、聖書を持ち歩くようになり、苦しいとき、悲しいとき聖書のことばで慰められ、嬉しいとき楽しいとき、神の導きを感謝しました。
 教会には今も憩いと慰めと喜び、そして希望があります。ぜひ教会に一度来てください。そしてあなたの人生の重荷を十字架のもとにおろして、神からの平安を得てください。私たちの人生は、誰の招きに応じ、誰のもとに行くかによって大きく左右されます。キリストは今日も「わたしのところに来なさい。」とあなたに語りかけ、招いておられます。


写真素材:ひまわりの小部屋