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最近テレビで、「自分の子どもなのに愛し方がわからない。まず、子どもを抱きしめてあげて下さい。」という、公共広告機構のCMが流れています。わが子とどう接すればいいのか分からない親たちが増えていると聞いてはいましたが、テレビで促されなければ「抱っこ」さえできない親がいるということは驚きを通り越して悲しみさえ感じます。そのCMは「人は愛された記憶があるから、人を愛せるのだと思う。」と語りかけます。わが子が誰かを愛することのできる人になるために、まず親が愛そうではないか、という訴えなのでしょうか。でももし愛された記憶によって誰かを愛するのなら、わが子を愛せない親こそ、その親から愛されなかった犠牲者、ということになってしまいます。この「愛の犠牲者」という悪循環を断ち切らなければ、今問題になっている育児放棄や幼児虐待を無くすどころか、減らすことさえ難しくなるのではないでしょうか。
聖書には、私たちの創造主である神の言葉として、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」と記されています。本来親にとってわが子は世界中の何よりも大切で愛おしいものですが、神は私たちひとりひとりをわが子のように愛して下さっている、というのです。人間の愛はしょせん不完全ですから、誰かをきちんと愛することはたとえわが子であっても非常に困難な作業です。しかしもし、私たちを創造された神の変わることのない愛を感じることができたら、誰かを愛する原動力としてこれほど心強いサポートはありません。そしてここにこそ「愛の犠牲者」という悪循環を断ち切る唯一の道があるはずです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 |
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