牧師コラム:鰯の頭も? <1998年9月>
日本でキリスト教が嫌われる最大の理由は、その「排他性」にあります。「自分の神様だけが本物で、他の神様は偽物と決め付けるのは、キリスト教の思い上がりだ。」、とよく言われます。
 古来この国では、どんな神様でも分け隔てなくお祭りし、また、「鰯の頭も信心から」と言うように、どんなものでも信仰の対象としてきました。神様を選ぶとか、神様の真偽を問うなどということは、タブーとされてきたのです。どんなものでも神様として信仰する事が、私たち日本人の信仰深さ、と言えます。
  一方では、「縁結びの神様」「商売繁盛の神様」「学業の神様」など、神様に「得意分野」を割り当てて、時々の必要に応じて「神様の使い分け?」をしてきました。生まれた時は神社にお宮参りに行き、結婚式は教会で挙げ、お葬式はお寺で行う、ということに何の抵抗も感じません。「困った時の神頼み」という言葉が表すように、神様とは、どうしようもなくなった時や、冠婚葬祭の折りに、ちょっとだけ力をお借りする「助っ人」のような存在、と言えるでしょう。
 このような考え方は、日本では常識ですが、世界では非常識とされています。なぜなら、これでは、神様などと呼んで祭り上げてはいるけれども、結局は人間に仕える召使として従わせているからです。人間を最高位に据えているのです。人間が一番偉いのです。 人間は本当に一番偉いのでしょうか。人間の判断は常に正しいのでしょうか。この問いに胸を張って「YES」と答えられる人はいないでしょう。人間はすべての生物の中で最も進化した生き物だ、と言いながら、自然を破壊し、互いの利益のために殺し合い、友をいじめて死に追いやるような愚かな存在なのです。
 キリスト教が排他的なのは、他の神々を嫌っているからではありません。教えや効き目の異なる神々を、都合に合わせて選ぶような考え方では、個人もまた社会全体も幸せになれないからです。聖書は、徹底した「性悪節」に立ち、神を恐れ、神と人の前にへりくだる姿勢を教えています。
  指導者から子供たちまで、何が善く、何が悪いのかが分からなくなってしまったこの国に必要なのは、身勝手な判断を止め、絶対的なものを認めて、自分の中に強い排他性を持つことではないでしょうか。

主はあなたに告げられた。
人よ。何が良いことなのか。

主は何をあなたに求めておられるのか。
それは、ただ公義を行ない、
誠実を愛し、
へりくだって
あなたの神とともに 歩むことではないか。 〜 聖 書 〜
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